今月は
2002年 9月は
夏も終わりですね。まだ残暑はきびしいですが、でも、もう虫の音が聞こえますね。
金花糖のメニューも、夏メニュー最後の月となりました。
冷たいものが美味しいのも、今月かぎりです。夏のなごりの暑い日には、
ぜひ冷たいメニューをお楽しみください。
さて、9月といえば中秋の名月です。今年は9月21日ですから、土曜日の夜ですね。
なんといっても、晴れた空にくっきり見えるのが素晴らしいのですが、
紫式部のよく知られた歌に、雲に隠れた、見えるか見えない月を詠んだものがあります。
早くから幼友達でありました人で、いく年か過ぎて行き逢いましたが、ちょっと逢った
だけで、雲に隠れる月と競うようにして帰りましたので、と前書きがあって
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影
< めぐり逢って、見たのか、それだったのかとも、分からない間に雲に隠れて しまった、夜の月光 >
幼友達との名残惜しさを溶け込ませた、雲間に微かに見えた月のイメージ、美しいですね。
藤原定家が、この歌を百人一首に選んだのもうなずけます。(百人一首では
「月影」は「月かな」です)しかし古来、意外なことに、
紫式部の歌詠みとしての評価は、もひとつなのです。
彼女は、小さい時からとても賢い子供でした。自分の兄弟にお父さんが教えている漢籍を、
そばで聞いている紫式部の方が早く理解してしまうので、「お前が男だったら」と
お父さんはいつも嘆いていたそうです。理性的で、歌も、情よりも理が勝ってしまうのですね。
藤原道長邸で、法華経を講ずる行事が催された時のこと。
池のかがり火が光り合って、昼よりも、底まではっきりと見えているのでした。
澄める池の 底まで照らす かがり火の まばゆきまでも 憂きわが身かな
仏の前で照らしだされる池の底。式部には、人の心の底も、
照らしだされるかのように見えたのでしょう。心の、暗黒の底が見えたのです。
それは「まばゆきまでも 憂き」、まばゆいほどの憂いとは、どんな思いなのでしょうか。
紫式部は、きっといろんなものが見え、様々な思いが走ってしまうのですね。
歌を、情にまかせて作ることはできなかったのです。この歌も、
情感溢れるとか、そういう歌ではありません。しかし、あくまでも深い。
理性的な、素晴らしい歌詠みだと思います。
心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
< 自分の心だけは、思う通りにしたいのだが、それはどんな身であれば叶うのだろう。 思い通りにならないと、思い知っているのだが、悟れない >