今月は
2015年 2月は
山は越えたと思うんですが、やはりまだ寒いです。
ただ最近は、暖かい下着とかすごく軽い防寒のジャケットとかがあって、
昔ほどぼこぼこの厚着ではなくなりました。
これはすごいなーと思います。
まあ、それでも寒いのは大変なんですが、
今月はいよいよ3日が節分、4日が立春です。
福はー内、鬼はー外とここまで来ると、寒さはあっても、
もう少しと元気も出てきます。
まだ鍋やおでんが美味しい日々は続きそうですが、
なんとか寒い時節を乗り越えていきたいです。
今月の金花糖は、まだ冬ごもりのような静かな雰囲気です。
こんなときのおすすめは、やはり力の出るお餅メニューで、焼餅トリオはいかがでしょうか。
焼き餅トリオは、職人さんがペッタンペッタンついた手つきのお餅を、
三種の味わいで組み合わせたメニューです。
海苔を巻いた磯辺まき、丹波の黒豆きなこを使ったあべかわ、
そして抹茶味の、三種の味わいがセットになっています。
ゆったり落ち着いた雰囲気で、ぜひ焼餅トリオをご賞味くださいね。
では、雪を詠んだ坂上是則(さかのうえの これのり)の歌です。
前書きがあります。
やまとのくににまかれりける時に、ゆきのふりけるを見てよめる
《大和の国(今の奈良県)に参りました時に、雪の降ったのを見て詠みました》
あさぼらけありあけの月と見るまでによしののさとにふれるしらゆき
〔朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪〕
夜明け方 有明の月かと 見るほどに 吉野の里に 降った白雪。
有明の月は、日が出ても空に有る月のことで、満月より後の月はそうなります。
この歌はまず、早く明け方に目が覚めて、
外がいつもより明るいぞと思ったのででしょう。
雪国で育った人は冬そういう経験があると思いますが、
外が明るい、晴れだと思って窓を開けると、一面真っ白、雪だった。
分からないくらい何度もだまされています。(笑) でも是則さんは、
天気がいいとかではなくて、有明の月が明るくてと思ったのです。
やはり詩人ですね。
それにしても有明の月があると明け方の光が違うというのは、
今の我々には気づき難いことかもしれません。
今は夜といっても街灯もあれば、どこかの窓の光もあって
なかなか月があるから明るいという感覚が出ないです。
でも昔の人がこんな歌を詠めたのは、
月の明るさをよく感じていたということもありますが、
実は昔は明け方の光に非常に敏感だったのです。
それは男女が逢うのは、男が必ず夜暗くなってから女の家に行き、
朝は暗いうちに帰らなければならなかったからです。
そこで明るくなるぎりぎりまでいようとすると、
自然に微妙な明るさの加減を見ることになるわけです。
この時間帯を表す言葉は、暁、曙、しののめ、朝ぼらけ、明け方とか
いくつもあります。
微妙な状況の違いを見て使い分けていたのです。
是則さんは大和の国に来て泊まり、
明け方に目が覚めて、有明の月と思い込んで戸を開けたのでしょう。
ぱっと現れたのは一面真っ白の世界でした。
その、あっという感覚から歌になったと思います。
「有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」、
気付かないうちにこんなに降っていた。
吉野の里に静かに降る雪が浮かんでくる、素敵な歌ですね。
次は、いよいよ春の到来を詠んだ慈円の歌です。
天の原ふじのけぶりの春の色のかすみになびくあけぼのの空
〔天の原 富士の煙の 春の色の 霞になびく 曙の空〕
大空は 富士の煙が 春の景色の 霞になびく 曙の空。
雄大ですね。気持がいいです。
「春の色」 の意味は迷うところですが、
漢語に 「春色」 という春景色の意の言葉があるので、
それを訓み下したものではないかと考えました。
昔は春らしい景色の代表的なものはなんといっても春霞でしたから、
いかにも春らしいという意味で 「春の色の」 としたのでしょう。
そしてこの歌は八百年前のものなのですが、
その頃まだ 「富士の煙」 が出てたんですね。
しかし、千百年前の古今和歌集の序文には、
「今は富士の山の煙立たずなり」 と書かれています。
富士山の煙は、止まったり出たりしながら
今は出ていないということのようです。
「富士の煙の 春の色の 霞になびく 曙の空」、
曙の空ですから、朝日の昇る富士山に春霞ということです。
なんと縁起のいいものが勢ぞろい。
そこに富士の煙がたなびいて、読んで気持がいいわけですね。(笑)
さあ、こんな歌を読むともう春のような気分になりますが(笑) やっぱりまだ寒いです。
冬の養生をして春を待ちたいです。