今月は
2015年 1月は
あけましておめでとうございます。
年が明けて気持も改まり、やっぱり何か清々しい気持になります。
毎年不思議なものだと思いながら何十年と経ってしまいました。
でも年が改まれば、また季節が繰り返す、
きっとこの自然の循環があるからこそ、気持も改まってくれるんでしょうね。
でもこれもまた不思議なことに、
新年の改まった気持ちというのは、
ほんとに続かないですね。(笑) これも数十年の実績があります。(笑)
今年も改まった気持ちが続かなくても、
いい事がいっぱいありますように (*^_^*)
そして今年の金花糖は、お蔭さまで15周年を迎えることになります。
開店した時には、本当にここまで続くとは思っていませんでした。
それにまず、
年を取るのでそこまでは出来ないだろうという気もしてました。
幸い健康に恵まれ、そして皆様の応援のお蔭で15年間続けることができました。
本当にありがとうございます。
金花糖は、数ではなくて、
ゆっくりとお客様一人一人にご満足いただけるような
お店であり続けたいと思っています。
これからもまた、よろしくお願いいたします。
では、新春を詠んだ式子内親王集(しょくしないしんのう)の歌です。
峰の雪もまだふる年の空ながらかたへかすめる春のかよひ路
〔峰の雪も まだふる年の 空ながら 片方(かたへ)霞める 春の通ひ路〕
峰の雪も まだ降るそしてまだ旧年(ふるとし)の 空でありながら 一方どこか春霞に霞んでいる 春の通い路。
美しいですね。まだ冬の景色に、やはりなにか春の気配が見える。
大空をいま春が通っている。新春の歌ですね。
今でも新年を迎えると、初春、迎春とか春を祝う言葉を使います。
旧暦では、元日がほぼ立春になるようになってましたから、
今も新年の祝いはその伝統にしたがった言葉を使うのでしょう。
また昔は農業社会ですから、
季節が異常なく巡ってくることがとても大切なことでした。
それで新年には春の兆しが見える、
そう歌うことが何よりおめでたい祝いの言葉となったのではないでしょうか。
子供の頃、お正月には床の間に、初日の出の掛軸が掛かってました。
でも日の出は毎日あるわけですから、
なぜこれが初日の出なのかなと思ってました。(笑) 初日の出は
太陽が昇る海とか山に、少し春霞がかかっています。
それが新春のおめでたい絵となります。
異常なく普通に季節が巡ってくる。
それが、何よりおめでたいことなのです。
「まだふる年の 空ながら 片方(かたへ)霞める 春の通ひ路」、
まさに新春にふさわしい、美しい歌ですね。
次は、藤原有家の歌です。冬の朝という題で詠まれました、
やまざとはたえぬあさけのけぶりさへ冬の気しきはさびしかりけり
〔山里は 絶えぬ 朝食(あさげ)の 煙さへ 冬の気色(けしき)は 寂しかりけり〕
山里は 絶えることのない 朝食の 煙さえも 冬の景色は 寂しいものだ。
この「煙」はもちろん朝食を作る竈(かまど)の煙でしょう。
この頃の竈は煙突がなくて、家のどこかに煙出しの穴があったようです。
そういえば、家に煙突があって煙が上がる、そういう光景は今はあんまり見ないですね。
子供の頃は、煙突といってもブリキだったと思いますが普通に見えてました。
そしてたしかに冬は、雪の降る中に家の煙突から煙が上がっているのも、
見てて寂しい感じがありました。
それが冬の山里ともなれば、もうほんとに寂しい光景になってしまうのでしょう。
でも 「朝食の 煙さへ」 とあるように、
朝ご飯を作ってるわけですから元気が感じられる景色であってもいいはずなんですが・・・ 思うに、
冬は草は枯れ、木の葉も落ちた山の景色の寂しさがあり、
そして冬の寒さは、家の中とか厚い衣服の中に、とにかく何か閉じ込められたような、
生気がどうしても活発にならないような、年寄りじみてますが(笑)やはりそういう感じがあります。
朝食の煙が見えても、やはり家の中の人が活発に活動しているようには見えないのでしょうね。
まあ、同じ煙でも例えば蒸気機関車みたいな出方なら話は全然違うでしょうけど、
それはないですね。(笑) 眺めれば雪に包まれてしまった家は、
煙もどこか弱々しいものに見えたのではないでしょうか。
「絶えぬ 朝食(あさげ)の 煙さへ 冬の気色は 寂しかりけり」、
冬の景色は寂しい。山里の、冬の情景が浮かぶような歌ですね。
さあ、新しい年の始まりです。
まだまだ寒いですが元気にスタートしたいです。
そして、今年一年がいい年でありますように!!